迎え花見

 無事に妻子が帰ってくる。と言うか迎えに行った。前回、すなわち去年の夏の帰省のときと同じ、あっちは島根から、こっちは岡山から、それぞれ車を出して、やまなみ街道内の道の駅で落ち合うパターンを取る。前回は世羅だったが、今回はもうひとつこちら寄りで、御調(みつぎ)となった。御調はもう尾道市内ということで、本当に近いものだった。御調にした理由は、タイミング的にどうしたって花見をしないわけにはいかなかったので、桜のある所を検索して、そうなった。道の駅に併設された公園に桜並木があるとのことだった。
 到着したのは僕のほうが早く、道の駅も、公園も、桜並木も、想像以上にこじんまりとしていて、これは失敗したかな、と思った。しかし結果的には、義父が足を痛めていたりして、あまりに広大な場所では困ったろうということで、コンパクトさが吉と出た。人もそんなにいなかったし。
 1週間ぶりに妻子の姿を見て、とてもホッとした。別に外見的に変化があったわけではなく、出発前の姿そのままで、ひとりのときだって脳裏に思い浮かべることはできたわけだが、でもやっぱり実体というのはそういうVRとはぜんぜん別物なのだった。ひとつ前の記事でも書いたが、今回はそのことをやけに痛感した。文章や画像というのは、本物の代替にはなり得ない。それは本物と接して得られる感情とは、まったく別の感情に作用するものなのだと悟った。
 こじんまりとした桜並木の、それでもいちばんよさげなスポットにレジャーシートを敷き、花見の態勢を整える。こちらは向こうよりも1時間ほど短い道程であり、朝に余裕があったので、焼きそばと炒飯を作って持ってきたのだった。縁日で使われるようなプラスチックの使い捨てケースをわざわざ買って、それぞれ6パックほど仕立てた。食べものを詰めたパックに輪ゴムを掛け、重ねた姿は、途端に売り物感が出て、それぞれ1パック350円くらいで売れそうだな、と思った。それを折り畳みテーブルの上に並べ、義父母や、車に一緒に乗ってきた三女らと囲んで食べた。そしてこれも家から冷やして持ってきたオールフリーを飲んだ。おいしかったし、暖かかったし、桜はきれいだったしで、希求していたものが充足した感じがした。張り切って準備してよかった。
 食べたあとは、これもちゃんと準備してきたバドミントンセットや縄跳び、ボールなどでしばし遊ぶ。もちろんバトンも披露した。ほどほどに「おー」という感触は得られたが、「ちょっと廻させて」と言って手に取った三女が、それなりにクルクルと廻しやがり、なんか基本的に運動神経のいい快活なタイプの人間って、急に与えられた棒を器用に扱ってみせる向きがあるよな、と思った。そういうタイプの人間じゃないこちらが、数ヶ月かけて到達した階梯に、さらりと行ってしまう感じ。もっともこちらが「たった数ヶ月」しかバトンの練習をしていないのに対して、向こうはもう20年以上、運動神経のいい快活なタイプの人間を続けているわけで、重ねた年月で言えばあっちのほうがよほど長いのだとも言える。
 そんな風にして花見と公園遊びを満足いくまで堪能し、解散となる。互いの車の、載せてきた荷物を交換し(こちらからもファルマンのこれまで使っていた椅子を引き取ってもらえることになったので載せてきていた)、そしてファルマンと子どもたちは車を乗り換えた。
 帰宅したのは3時ごろ。僕としては本当に、ドライブがてら花見もするか、くらいの感覚で、とても楽だったし愉しかった。子どもたちが舞い戻って来て、家は再び喧しく、そしてあっという間に散らかったが、あまりにも静かなのってぜんぜん良くなく、気持ちが沈むばかりで、そのことに気づいた週の後半からはずっとテレビを点けっぱなしにして過したりしていたので、うんざり感などはぜんぜんない。いまのところはまだぜんぜんない。